辻立ち、継続的に見直す、前向きに検討、善処、反発は必至、人道的介入、心の闇、除染、帰還困難区域、厳粛、永眠、無主物、必ずしも、適宜、風評、冷温停止状態、身に覚えが無い、予断が許されない、付帯的損害、高経年化、中間貯蔵施設、慙愧に耐えない、忸怩たる思い、危機管理、核燃料の一部損傷、躍起になる、特車、させていただく、否定できない、思惑絡み、波紋を呼ぶ、識者、明言をさける、現実路線、踏みとどまる、転進、少子化、成り行きが注目される、ご指導、抜本的、人身事故、滞留水、有事、国益、生涯学習、粛々、脱原発依存、粉骨砕身、地域主権、身に覚えが無い、警察予備隊、いかがなものか、集団的自衛権、事象、調査中、先行きは不透明、保全委員会、道半ば、避難指定解除準備区域、不退転の決意、玉砕、仮定の質問には答えられない、ふれあい、ただちに影響はない、お世話になっております、急がれる、絆、見直しを視野、信を問う、前面に据える構え、暫定的、終戦、常識、ベース電源、復興、後期高齢者、最大公約数、極めて異例、居住制限区域、異論が噴出、進駐軍、ご鞭撻、誠心誠意、不徳の致すところ、遺憾
穢
12月 18th, 2013 · No Comments
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日本語における敬語考「自身をも忌避したら、おまえは一体誰なんだ」
12月 5th, 2013 · No Comments
- 敬語は、人間を上下に位置付けようとするものであり、現代社会には、なじまないようにも思う。どう考えれば良いのだろうか。
- 尊敬している人には敬語を使って話したいのだが、社会人は、尊敬していない人にまで敬語を使わなければならないのだろうか。
- 自分よりかなり年下の、取引先の会社の若い社員や、子供の担任をしている若い教師などにも、敬語を使う必要があるのだろうか。
- 敬語を使うと、自分の気持ちが素直に表せない気がする。むしろ敬語を使わない方が自分らしさを表すことができるのではないだろうか。
- 敬語をたくさん使って丁寧な言葉遣いをしているのに、どうも失礼に感じられる人がいるのだが、どうしてなのだろうか。
- 大きな会社なのに「小社」と言ったり、優秀な子供なのにわざと「愚息」と書いたり、自信を持って書いた原稿まで「拙稿」と表すことなどは、何か卑屈な言い方に感じてしまう。こうした表現については、どう考えれば良いのだろうか。
- 「御利用される」「御説明される」のような形はよく使われていると思うし、自分も、例えば「先生もこの店をよく御利用されるんですか。」などと使ってきたのだが、ある人から、変な敬語だと指摘された。どこが変なのだろうか。
- 駅のアナウンスで「御乗車できません。」と言っているが、この敬語の形は適切なのだろうか。
- 「分かりにくい」や「読みやすい」といった言葉を敬語にしようと思い、「お分かりにくい」、「お読みやすい」と言ったら、変な敬語だと言われた。どう言えば良かったのだろうか。
- 受付の人に 「担当者に伺ってください。」と言われたが、客に対する言い方としては、何だか妙な感じがした。どこが変なのだろうか。
- 「課長、そのファイルも会議室にお持ちしますか。」と尋ねたところ、「うん、よろしく頼むよ。」と言われてしまった。私は自分が持っていくつもりではなく、上司である課長が持っていくかどうかを尋ねたかったのだが、どう言えば良かったのだろうか。
- 「お知らせ」として配布された文書に 「 来週の日曜日に消防設備等の点検に伺いますが、御在宅する必要はありません。」と書いてあった。どうも気になる言い方なのだが、どこが問題なのだろうか。
- 加藤先生に向かって、もう一人の恩師である田中先生のことを話題にして「明日は、田中先生のところに参ります。」と言った。田中先生を十分に高める気持ちで言ったのだが、これで良かったのだろうか。
- 「御持参ください」、「お申し出ください」、「お申し込みください」などといった言い方には、「参る」や「申す」など、本来自分に使う敬語が入っているのでいつも気になっている。これらは、適切な使い方なのだろうか。
- 社長から、課長である私が、部下に企画をもっと積極的に出せと指示しておくように言われた。「はい、そのように申し伝えておきます。」と返事をしたのだが、これでは部下を高めることになってしまうのだろうか。
- 自分のことに「お」や「御」を付けてはいけないと習ったような気がするが 「お待ちしています」や「御説明をしたいのですが」などと言うときに、自分の動作なのに、「お」や「御」を付けるのは、おかしくないのだろうか。これは、どう考えれば良いのだろうか。
- いつも、「御利用いただきましてありがとうございます。」と言ったり、書いたりしているのだが、「御利用くださいまして」の方が良いのだろうか。どちらが適切なのだろうか。
- 「させていただく」を余り使わない方が良いと聞いたが、実際には、見聞きすることが多い。また、自分でも「それでは、発表させていただきます。」などと言ってしまうが、どう考えれば良いのだろうか。
- 自分のことを「僕」と呼んでいるのだが、「僕」と「わたし」はどのように使い分ければ良いのだろうか。
- 会議の司会をしている時に、1年先輩の同僚に 「あなたはどう考えますか 」と言 ったのだが、「あなた」は丁寧な言葉だとは思いつつ、ちょっと違和感を覚えた。「あなた」という呼び方については、どう考えれば良いのだろうか。
- 手紙のあて名書きで気になる点がある。学校の教師に出す手紙のあて名は「○○様」で良いのだろうか。また、「○○中学校 山田一郎先生御中」と書いたが、これで良いのだろうか。
- 自分の家族について改まった場面で話すときには、「父・母」と呼ばなければいけないのだろうか。
- 保護者からの電話で、同僚の田中教諭の不在を伝えるときに、「田中先生はおりません。」と伝えたが、それで良かったのだろうか。それとも「田中はおりません。」と伝えた方が良かったのだろうか。
- 自分が日常は敬語を使って話している田中部長のことを、取引先の社員に話すときにウチ扱いにすることは分かるのだが、「田中」と呼び捨てにするのはどうも抵抗がある。特に田中部長が同席しているときに、「田中」とは言いにくいのだが、どう考えれば良いのだろうか。
- 社内の忘年会で司会をすることになった。最初に、社長からのあいさつがあるのだが、その時 「社長からごあいさつを頂きます。」と「社長からごあいさつを申し上げます。」のどちらを言えば良いのだろうか。また、社外の人が多くいる会で司会をすることになった場合は、どうすれば良いのだろうか。
- 係長である自分が課長と一緒に部長室に行き、3人で話した。その時に、部長に対して「課長は、このようにおっしゃっていました。」と言ったところ、後で課長に「あのような場面では、わたしには敬語を使わなくていいよ 」と 。 指摘を受けた。課長も部長も上司なので、どちらにも敬語を使った方が良いと思ったのだが、どう考えれば良いのだろうか。
- 時間外に仕事を教えてくれた上司に「どうも御苦労様でした。」と言ったら、「御苦労様はないだろう。」と笑われてしまった。それで、書類作成に追われた上司が帰る時には「御苦労様」以外の言い方を考えてみたのだが、適切な表現が浮かばず、そのままになってしまった。そういう気持ちを表したい場合には、どうすれば良いのだろうか。
- 講演会の講師に対して、終了後の懇親会で会った時に 「すてきなネクタイですね。」と褒めてもいいのだろうか。また、仕事を分かりやすく教えてくれた上司に対して、「課長は教え方が上手だ」ということを伝えたいのだが、どう表現すれば良いのだろうか。
- 部長から「いい仕事をしたね。」と褒められたので、思わず「とんでもございません。」と言ったのだが、この表現は使わない方が良いとどこかで聞いたことを思い出した。「とんでもございません」の何が問題なのだろうか。
- 英語に堪能な部長がフランス語もできるかどうかを尋ねたいのだが、「部長は、フランス語もお話しになれるんですか。」や「部長は、フランス語もお出来になるんですか。」と言うのは失礼なように思う。また、コーヒーが飲みたいかどうかを課長に尋ねたいとき、「課長もお飲みになりたいですか。」は変な表現であるように感じる。「課長は、夏休みにはどこへいらっしゃるつもりですか。」も、敬語の間違いはないと思うのだが、何だか変だ。これらの表現は何が問題なのだろうか。
- 同僚に仕事を頼む時に、自分が責任者ではなかったが、「この仕事をしていただきます。」と言ったら、きつい言い方だと言われてしまった。敬語を使っているから良いと思っていたのだが、どう言えば良かったのだろうか。
- 同僚から突然「これ、お願いします。」と書類を置いていかれた時、何だか失礼な頼み方だと感じた。何が問題だったのだろうか。
- 「それ、取ってもらってもいい(ですか)。」「こちらの書類に書いていただいてもよろしいですか。」というような言い方をよく耳にする。「取ってちょうだい。」や「取ってください。」「書いていただけますか。」に比べると、何だか回りくどい言い方に聞こえてしまう。こうした表現については、どう考えれば良いのだろうか。
- レストランで働いているのだが、いつも「御注文の品はおそろいになりましたでしょうか。」と言いながら、何だか変な表現だと思う。なぜ変なのだろうか。どう言えば良いのだろうか。
- 東京の大学に通う地方出身の大学生だが、先日、クラスのコンパのことで、担任の先生に「先生も行かれますか。」と尋ねたのだが、敬語の使い方として、これで良かったのだろうか。
- 関西に行くと、「どこから来たのか」という意味で 「どちらから来はったんですか。」と聞かれることがある。この「来はった」にはどんな意味が込められているのだろうか。
以上は文化庁文化審議会答申「敬語の指針(平成19年2月2日 原文 http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/keigo/guide.pdf)」にある、敬語に関する疑問の例。主題優先言語である日本語は、一人の個人の率直な自己表現よりも、他者との関係性の中での「婉曲させた自己表現=敬語」を重視する点で、そもそも曖昧である。なぜなのか。それは、この指針にある「すべての人は基本的に平等」よりも、上下関係を重視した規律正しさを良しとする社会だからである。相手を人間としてではなく、むろん自身も人間としてではなく、社会的に何者であるかを重視する、大層ご立派な権威主義社会の中で、上、下、上、下、アップ&ダウン、アップエンダウンを日々、連続性を以って継続しているからである。無論、上下のない国などない。ただ、この執拗なまでの敬意に対する執着心は、この国の精神構造が封建時代の頃からさほど変わっていない証拠であると考える。
言葉で自身を曲げる。言葉で自身を貶める。言葉で自分を従わせる。そういうフリをする。自分を消し、ごまかし、何かに依拠している自分を表現するのに都合の良い敬語を用い、ない敬意をあるかのようにすることで、問題を事前に忌避する。日本人は一般的に協調を好むと言われるが、正確には協調ではなく責任の忌避である。外国語風に言えば「リスク回避」である。リスクを元から減らすことに社会的命題が規定され、それによって近代的・現代的な「人間性」が薄められる。婉曲される。否、自身で婉曲し続けている。そして、自身をも忌避している。これが「日本語が曖昧」なのではなく、「日本人が曖昧さを好む」と考える理由である。
最後に。よく「その言い方はなんだ」「言い方が気にいらない」と言い続けていたのは、正しくおれ自身であったことをここに告白する。hypocrisyはそういう自身に対する欺瞞、偽善に関する思いから始めた。私生活でも、大好きな写真でも、ぐじゃぐじゃ言うのをやめにしたいのだ。
【2013写真群「hypocrisy」】
http://www.flickr.com/photos/atemzeit/sets/72157637630977956
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2011年4月25日 原子力保安院 海外報道向け記者会見
12月 4th, 2013 · No Comments
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