根本的日本
4月 6th, 2014 · No Comments
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石川啄木「時代閉塞の現状(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」 1910年(明治43年)
3月 12th, 2014 · No Comments
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一
数日前本欄(東京朝日新聞の文芸欄)に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住氏の論文は、今日における我々日本の青年の思索的生活の半面――閑却されている半面を比較的明瞭に指摘した点において、注意に値するものであった。けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾が雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検覈がそれに対して加えられずにいるのである。彼らの両方――いわゆる自然主義者もまたいわゆる非自然主義者も、早くからこの矛盾をある程度までは感知していたにかかわらず、ともにその「自然主義」という名を最初からあまりにオオソライズして考えていたために、この矛盾を根柢まで深く解剖し、検覈することを、そうしてそれが彼らの確執を最も早く解決するものなることを忘れていたのである。かくてこの「主義」はすでに五年の間間断なき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいるのみならず、事実においてすでに純粋自然主義がその理論上の最後を告げているにかかわらず、同じ名の下に繰返さるるまったくべつな主張と、それに対する無用の反駁とが、その熱心を失った状態をもっていつまでも継続されている。そうしてすべてこれらの混乱の渦中にあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。
自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していたことは事実である。そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(純粋自然主義が彼の観照論において実人生に対する態度を一決して以来)の傾向は、ようやく両者の間の溝渠のついに越ゆべからざるを示している。この意味において、魚住氏の指摘はよくその時を得たものというべきである。しかし我々は、それとともにある重大なる誤謬が彼の論文に含まれているのを看過することができない。それは、論者がその指摘を一の議論として発表するために――「自己主張の思想としての自然主義」を説くために、我々に向って一の虚偽を強要していることである。相矛盾せる両傾向の不思議なる五年間の共棲を我々に理解させるために、そこに論者が自分勝手に一つの動機を捏造していることである。すなわち、その共棲がまったく両者共通の怨敵たるオオソリテイ――国家というものに対抗するために政略的に行われた結婚であるとしていることである。
それが明白なる誤謬、むしろ明白なる虚偽であることは、ここに詳しく述べるまでもない。我々日本の青年はいまだかつてかの強権に対して何らの確執をも醸したことがないのである。したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。そうしてここに我々が論者の不注意に対して是正を試みるのは、けだし、今日の我々にとって一つの新しい悲しみでなければならぬ。なぜなれば、それはじつに、我々自身が現在においてもっている理解のなおきわめて不徹底の状態にあること、および我々の今日および今日までの境遇がかの強権を敵としうる境遇の不幸よりもさらにいっそう不幸なものであることをみずから承認するゆえんであるからである。
今日我々のうち誰でもまず心を鎮めて、かの強権と我々自身との関係を考えてみるならば、かならずそこに予想外に大きい疎隔(不和ではない)の横たわっていることを発見して驚くに違いない。じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委ねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷として規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと)、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは便宜によるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう問題が我々の脳裡に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。
二
むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会によってのみ発生するものではない。我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な危惧を感じている。またすべての青年の権利たる教育がその一部分――富有なる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税の費途なども目撃している。およそこれらのごく普通な現象も、我々をしてかの強権に対する自由討究を始めしむる動機たる性質はもっているに違いない。しかり、むしろ本来においては我々はすでにすでにその自由討究を始めているべきはずなのである。にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進んでいない。そうしてそこには日本人特有のある論理がつねに働いている。
しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」
かの早くから我々の間に竄入している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。
かくて魚住氏のいわゆる共通の怨敵が実際において存在しないことは明らかになった。むろんそれは、かの敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。そうしてこの結合(矛盾せる両思想の)は、むしろそういう外部的原因からではなく、じつにこの両思想の対立が認められた最初から今日に至るまでの間、両者がともに敵をもたなかったということに原因しているのである。(後段参照)
魚住氏はさらに同じ誤謬から、自然主義者のある人々がかつてその主義と国家主義との間にある妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと咎めている。私は今論者の心持だけは充分了解することができる。しかしすでに国家が今日まで我々の敵ではなかった以上、また自然主義という言葉の内容たる思想の中心がどこにあるか解らない状態にある以上、何を標準として我々はしかく軽々しく不徹底呼ばわりをすることができよう。そうしてまたその不徹底が、たとい論者のいわゆる自己主張の思想からいっては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底ではかならずしもないのである。
すべてこれらの誤謬は、論者がすでに自然主義という名に含まるる相矛盾する傾向を指摘しておきながら、なおかつそれに対して厳密なる検覈を加えずにいるところから来ているのである。いっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする笑うべき「ローマ帝国」的妄想から来ているのである。そうしてこの無定見は、じつは、今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである。
三
むろん自然主義の定義は、すくなくとも日本においては、まだきまっていない。したがって我々はおのおのその欲する時、欲するところに勝手にこの名を使用しても、どこからも咎められる心配はない。しかしそれにしても思慮ある人はそういうことはしないはずである。同じ町内に同じ名の人が五人も十人もあった時、それによって我々の感ずる不便はどれだけであるか。その不便からだけでも、我々は今我々の思想そのものを統一するとともに、またその名にも整理を加える必要があるのである。
見よ、花袋氏、藤村氏、天渓氏、抱月氏、泡鳴氏、白鳥氏、今は忘られているが風葉氏、青果氏、その他――すべてこれらの人は皆ひとしく自然主義者なのである。そうしてそのおのおのの間には、今日すでにその肩書以外にはほとんどまったく共通した点が見いだしがたいのである。むろん同主義者だからといって、かならずしも同じことを書き、同じことを論じなければならぬという理由はない。それならば我々は、白鳥氏対藤村氏、泡鳴氏対抱月氏のごとく、人生に対する態度までがまったく相違している事実をいかに説明すればよいのであるか。もっともこれらの人の名はすでになかば歴史的に固定しているのであるからしかたがないとしても、我々はさらに、現実暴露、無解決、平面描写、劃一線の態度等の言葉によって表わされた科学的、運命論的、静止的、自己否定的の内容が、その後ようやく、第一義慾とか、人生批評とか、主観の権威とか、自然主義中の浪漫的分子とかいう言葉によって表さるる活動的、自己主張的の内容に変ってきたことや、荷風氏が自然主義者によって推讃の辞を贈られたことや、今度また「自己主張の思想としての自然主義」という論文を読まされたことなどを、どういう手続をもって承認すればいいのであるか。それらの矛盾は、ただに一見して矛盾に見えるばかりでなく、見れば見るほどどこまでも矛盾しているのである。かくて今や「自然主義」という言葉は、刻一刻に身体も顔も変ってきて、まったく一個のスフィンクスになっている。「自然主義とは何ぞや? その中心はどこにありや?」かく我々が問を発する時、彼らのうち一人でも起ってそれに答えうる者があるか。否、彼らはいちように起って答えるに違いない、まったくべつべつな答を。
さらにこの混雑は彼らの間のみに止まらないのである。今日の文壇には彼らのほかにべつに、自然主義者という名を肯じない人たちがある。しかしそれらの人たちと彼らとの間にはそもそもどれだけの相違があるのか。一例を挙げるならば、近き過去において自然主義者から攻撃を享けた享楽主義と観照論当時の自然主義との間に、一方がやや贅沢で他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格があるだろうか。淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。
魚住氏はこの一見収攬しがたき混乱の状態に対して、きわめて都合のよい解釈を与えている。曰く、「この奇なる結合(自己主張の思想とデターミニスチックの思想の)名が自然主義である」と。けだしこれこの状態に対する最も都合のよい、かつ最も気の利いた解釈である。しかし我々は覚悟しなければならぬ。この解釈を承認する上は、さらにある驚くべき大罪を犯さねばならぬということを。なぜなれば、人間の思想は、それが人間自体に関するものなるかぎり、かならず何らかの意味において自己主張的、自己否定的の二者を出ずることができないのである。すなわち、もし我々が今論者の言を承認すれば、今後永久にいっさいの人間の思想に対して、「自然主義」という冠詞をつけて呼ばねばならなくなるのである。
この論者の誤謬は、自然主義発生当時に立帰って考えればいっそう明瞭である。自然主義と称えらるる自己否定的の傾向は、誰も知るごとく日露戦争以後において初めて徐々に起ってきたものであるにかかわらず、一方はそれよりもずっと以前――十年以前からあったのである。新しき名は新しく起った者に与えらるべきであろうか、はたまたそれと前からあった者との結合に与えらるべきであろうか。そうしてこの結合は、前にもいったごとく、両者とも敵をもたなかった(一方は敵をもつべき性質のものでなく、一方は敵をもっていなかった)ことに起因していたのである。べつの見方をすれば、両者の経済的状態の一時的共通(一方は理想をもつべき性質のものではなく、一方は理想を失っていた)に起因しているのである。そうしてさらに詳しくいえば、純粋自然主義はじつに反省の形において他の一方から分化したものであったのである。
かくてこの結合の結果は我々の今日まで見てきたごとくである。初めは両者とも仲よく暮していた。それが、純粋自然主義にあってはたんに見、そして承認するだけの事を、その同棲者が無遠慮にも、行い、かつ主張せんとするようになって、そこにこの不思議なる夫婦は最初の、そして最終の夫婦喧嘩を始めたのである。実行と観照との問題がそれである。そうしてその論争によって、純粋自然主義がその最初から限定されている劃一線の態度を正確に決定し、その理論上の最後を告げて、ここにこの結合はまったく内部において断絶してしまっているのである。
四
かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。
見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。
時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。
我々青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。
かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買、淫売買、ないし野合、姦通の記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によって公認、もしくはなかば公認されているところではないか。
そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾なくその美しさを発揮しているかを。
かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。
五
明日の考察! これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。
その考察が、いかなる方面にいかにして始めらるべきであるか。それはむろん人々各自の自由である。しかしこの際において、我々青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えてみれば、だいたいにおいて我々の今後の方向が予測されぬでもない。
けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤として一部の間に認められているごとく、樗牛の個人主義がすなわちその第一声であった。(そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている)
樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的(日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく)であった。そうしてその思想が魔語のごとく(彼がニイチェを評した言葉を借りていえば)当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。
この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新に建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその跳梁に堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは正鵠を得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐の天に飛翔することを許さなかったのである。
第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」
かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。
さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。
文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。
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大雪 山梨県北杜市小淵沢町にて2014年2月 FACEBOOK
2月 24th, 2014 · No Comments
2014-02-12
余は昭和六七年の世情を見て基督教の文明と儒教の文明との相違を知ることを得たり。浪士は神道を口にすれども其の行動は儒教の誤解より起り来れる所多し。それ兎もあれ日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行も之を要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起ることなり。然り而して個人の覚醒は将来に於てもこれは到底望むべからざる事なるべし。(永井荷風「断腸亭日常」昭和11年2月14日)
2014-02-15
秋田、山形、福島、富山、長野など、親愛なる雪国の友へ。昨日からの雪で山梨県全域は史上稀に見る大雪となった。北杜市にある彼女の実家雪かきを手伝っている。さっき、ようやく車のナンバープレート部まで辿り着けた。そこでお願いがある。「1)一晩での積雪1m超えがどんなレベルのものか、教えてほしい」「2)気温が高まってきている。雪は止んだ。屋根には1m位の積雪がある。雪おろしすべきか」「3)その他注意すべき点」。こちらの道具は雪スコップ2本、スノープッシャー1本。雪質は粉雪が徐々に緩んだ状態。応答求む。
2014-02-15
中耳炎のアキラが寝に入ってから2度吐く。緊急時は背中に背負って駅まで歩き、中央線を西に走れば富士見高原病院がある。駅まで歩けるかどうか、外に出て見た。
ほぼ真円の月が黒い空に浮かんでいた。甲斐駒、鳳凰がすっきりとした夜顔を覗かせていた。この2日間、灰色の幕に包まれていた八ヶ岳が雲に巻かれていた。騒々しい一日の中、心が休まる散歩だった。
駅方面へ続く急坂に一本、人が一人通れる様な道が続いていた。自動車はまだまだ無理だろう。
赤子の薬は月曜日の朝まで残っている。明日の晩、月曜日の方向性を固めることにした。彼女と「体力勝負だね」と話がまとまった。
2014-02-16
昨晩は中々寝付けなかった。朝起きた、状況は昨日と同じ。ちっとばっかの雪かきは意味ないと判断し、小淵沢町の状況を探るため、散歩に出た。歩いて10分くらいは誰とも会わなかった。見える物は皆、森吉山の樹氷じゃないが、白に覆われていた。最初に会ったのはブルドーザーだった。次に、おじさんがいた。話しかけると「役所の人け?」。色々聞くが余り情報が渡っていない。花屋の巨大ハウスが中折れしてぺしゃんこになっている。車はみんな白い突起になっている。町に出る。皆、それぞれの雪かきをしている。子供だけが楽しそうにキャーキャー遊んでいる。大人は大抵、下を向いているか、破れ被れで雪かきしているのかのどちらかだった。駅前商店街は雪でバリケードされていた。14日にマンボウと来たときと同じ様に、雪かきをしている。違うのは屋根の雪がほぼ全部、カタツムリの貝殻のように丸まりつつある雪を頂いている点。駅には足止めになった人々がいた。ある若い家族は愛知からの旅であり、今日で3日目、無理矢理にでも帰りたい、といっていた。赤ちゃんがサングラスをかけていてかわいかった。駅そばの「丸政」は営業中だった。タクシーは一台もいない。雪だらけ。小淵沢支所に向かう。途中、山梨中央銀行のATMが動いていた。金をおろせた。軒並み焦点は休み。高原旅館は空いている様に見えた。支所に着く。災害情報のひとつも張り出してあるかとおもったが、なんにもなかった。災害対策本部は2階だったか、そんな張り紙がはってあっただけだった。話を聞くと「除雪を一生懸命やっているのだけれど、精一杯だ。それぞれ職員がついて回っている」と話してくれた。酷く疲れているようだった。小学校の縦筋は除雪が完了しアスファルトが黒い顔を覗かせていた。この町にはいわゆるスーパーはひとつしかない。富田克也監督作品『サウダーヂ』を見て、甲府市内に出店を決めた「スーパーやまと」。ダメもとで歩いて行くことにした。一旦駅に戻った。スーパーやまとの方角である西を見てあぜんとした。それまではブルドーザーが入って頑張れば車入れられる感じだったのだが、除雪野の形跡なし。近隣の人達が踏み固めで作ったインディーズあぜ道のみ。ここから何キロ離れてるのか、を考えたら頭が痛かった。
インディーズは骨のある道だった。幅30センチ程度の道を長靴で歩く。転んでも雪の中に落ちればいいや、と思ったら気が楽になった。中央線と小海線を越える跨線橋の上に出た。双方共に雪に埋まっていた。真っ白だった。真っ白な地面の上を電線が真っ直ぐ走っていた。
途中、家から道まで何十メートルかけてインディーズしているおばさんがいた。「道までさ、出られりゃなんとかなるらー」。出で立ちがpublic enemyみたいだった。
スーパーやまとは空いていた。外国人の女性が話しかけて来て、子供達に三食つくらなきゃいけない、学校がお休みで大変だ、一番大変なのはおやつだ、と言っていた。商品の品揃えはぼちぼち切れそうなカンジだった。東ハトオールレーズンとアイスコーヒーを時間があったので北側にあるセブンイレブンにタバコのストックを買いに行った。途中、中央道の小淵沢ICは雪で埋まっていた。立ち往生している車が何台もあった。窓に連絡先を貼付けていた。普通車もトラックもいた。白い地面に身体の三分の一を埋めていた。
セブンではパンやおにぎりなど、すぐ食えるもんがなかった。からあげくんみたいな奴は売っていた。タバコは数商品が品切れだった。震災時のような事はまだ無いと思った.
帰りにスーパーやまとに寄り、家族のリクエストを幾つか買った。三袋を持って帰路についた。同じような境遇の人達がインディーズを下っていた。跨線橋から西を見ると、黄色いヘルメットを被った作業員がスコップを持って長野方面を歩いて行くのが見えた。
そこから1時間程して家に帰った。帰宅後は雪かき再開。正直いつ自動車出せるのか全然わからない。雪が溜まっている場所、道が見えているところの落差が激しい。あと、別件で電話かかってきたけど、あまりにもあまりなのでここでは書かない。資本主義を本気でやるなら、命がけでやってみろよ、玉。もちろん、テレビもラジオも聞いていない。何の訳にも立たない。
2014-02-16
とにかくよ、テレビもラジオもクソだからよ、せめて夜くらいは、おまんとうのしゃいこーな音楽聴かせてくれ。で、明日もフツーに仕事したり、子育てしたり、恋してくれ。とにかく、ぜったい、完璧に「不謹慎」だけはやめてくれよな、All!
2014-02-16
長野は広い。長野の富士見町に住む朋輩から朝晩連絡あり。アポカリスナウとのこと。長野のテレビでは碓氷峠の話ばかりだという。彼のめしは残り5食を切ってる。写真好きall、小林紀晴の撮った茅野から東はぶっ壊れてる。あの山の麓はカオス。寝る。
2014-02-16
全域なんだよ。
—–以下、長野県富士見町に住む朋友より送られてきた文章と写真—–
昨日の朝の自宅のデッキからの写真です。八ヶ岳南麓一帯は雪に埋まって大変な状況が続いていますが、ニュースでもあまり報道されていません。
2014-02-16
どーでもいいからここまで来いよ東京。一般化してえならここまで来いよ、クソウンコシット東京。
2014-02-17
—–以下、北杜市武川町(旧・武川村)に住むいとこより情報—–
【国道20号北杜市武川町内 17日(月)正午前】
遅くなりましたが、文字のみで一応お知らせ。
牧原交差点にて、長野方面は除雪終了まで通行止めとのことでガードマンによる停止。この為、交差点周辺に停車している車が多かったですが、渋滞というほどではなかったです。長野方面からの車は通過できました。
県道から舞鶴橋経由で舞鶴松入口へ抜けて武川地内もっとも長野寄りの上三吹の実家まで。
途中、数台の放置車両がありましたがそれ以外は概ね除雪も終了し路面は見えていました。ちょうど、上三吹から尾白川橋の間の下り車線除雪中でした。白州町内にはいり花水坂入口信号先の登坂車線終わったあたりで、車の列の最後尾。前のほうの様子はわからない、ということでしたので、上三吹まで戻りました。
おそらく、放置車両の処理が終わったら進入禁止は解除になり、武川町地内の国道は全面2車線交通可能になると思います。
避難場所の上三吹公民館近くにはまだ10台近い県外ナンバーの車が停められていました。
●武川診療所
本日より診察しています。予め電話予約を。今日は門前薬局が開いておりませんでしたが、院内処方できる薬は出していただけます
●コメリ 武川店
本日より開店。武川で唯一灯油が買えます。販売制限はなかったですが、売り切れにご注意。
●スーパーやまと、スーパーおの、肉の沓川、浅川金物店、至誠堂薬局は開いているようでした。
すべて17日(月)正午前の状況です
2014-02-17
以下、山梨県小淵沢町、長野県富士見町、原村界隈の人らにも役に立って欲しい、韮崎方面行き県道17号線の2/17現在の情報です(実走)。
・小淵沢町の帝京三高界隈から15時出発、自動車は軽アルト四駆。出車理由は生後10ヶ月の娘が中耳炎になり、かかっていた医者が韮崎にあるため、走破可能かどうかを確認するため。また灯油が心細いので途中で買うため。
・路面は雪まみれ、昼はガタガタな凍結部とシャーベット状の雪が混じった状態。道幅は1〜1.5車線程度。
・この状態は長坂の日野春小学校まで続く。ハンドルもろ取られる。
・長坂の線路橋越えたあたりでストップ。ここから先の区間は断続的に除雪が入っており、細い道なので30分に一回の片側通行になるとのこと。
・日野春駅近くになると道は相当スムースになる。ただし、普通車、ベルファイヤークラスのバンの通行により、対向車線でのすれ違いに著しい支障あり。
・。なお日野春→20号の通称「野猿返し」は通行止。車線は概ね1.5車線。
・穴山が近づいてきたので左折し、穴山駅方面に走る。郵便局の信号を左折し、穴山温泉前を通過し、そのまま国道141号線桐の木交差点に出る。右折し国道を走る。ほぼ2車線。店もそこそこ空いていた。
・ガソリンはどこもある感じだった。灯油は一人1個のところもあれば品切れのところもあり。クスリのサンロードは18:30まで営業中。
・ちなみに20号はみどりや食堂の橋辺りで通行止。待っているのは長距離トラックばかり。
「おれの感想」
・相当に雪道のドライブテクニックがないと走破は難しい
・四駆必須。もちろんスタッドレスで。不安な人はチェーン巻いて。
・でかい車で移動はして欲しくない。えらそーにでかい車でくんな、と軽自動車に叱られるのを見た。同じように一瞬思ったが、彼らの気持ちを考えると何も言えなかった。なお、峡北広域行政事務組合消防本部の消防車「峡北5」が「巻柏」の看板がある辺りで通行をスムースにするため、長い時間、集落入口でやり過ごしているのが苦しかった。
・ガソリンを潤沢にいれておくこと必須。ガソリンは小淵沢町内HOYAより前だったかにある「笹屋」の日石で入れられた。灯油は売り切れ。
・朝晩の走行は凍結があるので注意を要する。避けるべき。特にやばいと思ったのは小淵沢町全域、「ビジネスホテル鯉」のヘアピン日陰、長坂の中央線の線路橋辺りの坂
・ラジオ付けて。AM山梨放送765khz。FMは聞かなかった。北杜市あたりは電波弱いが色んな情報が入って便利。梶原しげる&みかにゃん、ありがとう。勇気付けられた。特に「strawberry fields forever」聴いたら泣けて仕方なかった。どんどん話して欲しい。
以上です。
2014-02-17
【!!不拡散希望、近隣の方のみアドバイス欲しい!!】小淵沢の南部の彼女実家の居間で利用している大型石油ファンヒーターが故障しています。おとといまでの段階で、甲府の業者に電話したけれど「来週にならないと行けない」と返事。小淵沢近隣の業者で来られそうな方がいらっしゃれば、教えてほしいです。以下詳細です。
1.状況
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・現象発生日時「2014年2月15日早朝」
・機種名「コロナ FF-749S」
・シリアルナンバー「3172902」
・症状「電源を入れてから数分後、カタカタカタと異音を発し『E2』エラー表示(不着火)され、温風が出ない」
・原因「部屋外部に出した排気口が雪で埋まっているのに気付かずスイッチオンしたことと推測」
2.家までの道のり
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・家近辺には軽四駆でのみ近づける
・車長の長い車は入れない(入口が狭いため)
・県道17号から北に1キロ程度
よろしくお願いします。
2014-02-18
明後日の雪情報、あれば投げて欲しい。場合によっては明日、雪下ろしせんならん。いま、ネット環境はiPhoneしかなく、苦しい。なんとか頼む。ほんと、雪下ろしのスペシャリストがいたら逐次頼みたいところなんだけどな。現在屋根雪70-80センチ。築100年は下らない。今日のポカポカ陽気でだいぶ溶けている。夜はマイナス5とか7とか普通に行く。
2014-02-18
—–以下、県内に住む友より情報—–
先ほどTwitterで得た情報を!
中央道
↓↓↓
中央道、八王子IC〜諏訪IC11時に通行止め解除。
高速へ入れないIC▷相模湖東IC、双葉スマートIC、長坂IC、小淵沢IC
高速から降りれないIC▷上の4つに加え、上野原IC、大月IC、勝沼IC、須玉IC、諏訪南IC
2014-02-19
本日午前11時過ぎ、無事小淵沢より韮崎の耳鼻科に自動車で到着、診察を受けることができました。状況はちょびっとだけ良くなってる様です。まずは安堵。
2014-02-20
この六日間、本当につらかった。
2014-02-21
改めてみんなありがとう。さえもより、今日、耳鼻科に行ったら昨晩の一件で薬は増えたものの、中耳炎そのものは良くなって来てるとの朗報。小淵沢の石油ファンヒーターの故障が治ったとも連絡あり。本当にホッとした。
この一週間、写真を数百枚撮った。見直してみたら、人の写真を数多く撮っている。ほとんどが知らない人ばかり。こっちがテンション高いからだろうか、ガンガンの笑顔が並ぶ。やぶれかぶれだった。やってらんなかった。写真は朋友に送った2/16、インディーズ雪中道路を数キロ歩いてスーパーやまと小淵沢店からの買い出し帰り、やせ我慢の弱虫ハードコアくずれ。
2014-02-22
ようやく甲府の自宅に戻った。ぶどう棚がぶっ壊れていた、大好きだった桜の老木がぶつっと折れていた。見てはならないものを見た気がした。哀しかった。そして、この一週間が一体何だったのか、インターネットの各メディアの記事を読んだ。が、全体像がまったく掴めなかった。特に知りたかったのが、「安倍が、政府がいったいなにをやっていたか」ということだった。ジャーナリストの岩上安身氏による検証記事を見つけ、むさぼるように読んだ。有料サイトのため、部分的にしか読めなかった。それでも充分過ぎるほどショックな内容だった。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/125934
2014-02-22
2/16だったか、これを見て完全にネジが飛んだ。がむしゃらに家の外を走る小さな道路への雪道をようやく掘り終え、外の世界に出て愕然とした、身体がボロボロになっていた時だった。怒りに震えた。見捨てられたのだ、と思った。震災の時に、おれたちだって津波でやられてヤバいのに、全然報道してくれない、頼む、助けてくれ、と言っていた茨城の連中の気持ちが痛いほどよくわかった。インパール、ガダルカナル、ニューギニア等で命を失った、兵隊のことを思った。その晩は深夜まで飲んだ。やりきれなかった。長野県の、小淵沢の隣町である富士見にいる朋輩から電話があり、その内容に愕然とした。飲みながらテレビを見た。90代のばあちゃん部屋からNHKラジオが鳴っているのを同時に聞きながら飲んだ。オリンピックをやっていた。雪の情報はなかった。おれはずっと待っていた。雪の情報をずっと待っていた。
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