ここ1年ほど、田中秀幸君の写真を、仕事という形で見ている。
今日一日中、彼の写真と格闘した。
彼の写真を見て感じることの多くは、切ないものだ。
切なさを切なく感じることほど愚かなことはないが、彼にはそういった素振りは微塵もない。
実に堂々としている。
だから余計切ないのか、と思う。
時間を相手にすれば、かなりのものが切なく見える。
いや、だからこそ美しく、屹立するともいえる。
そういう危うい調和の中で、しっかりと安定した場所を持っている。
なぜ? という言葉で写真を読んでいく。
なぜ、この人はこんな格好で歩いているのか。
なぜ、この建物はこんなに歪んでいるのか。
なぜ、この木はここに植えられたのか。
連続した動きの中の、ほんの何百分の一秒かを彼は「なぜ?」で抜き取る。
正常だと感じている世界に公然と潜むバグのようなものを、彼は抜き取る。
彼とそれの間には、物理的な会話はあまりないような気がする。
ただ、互いの心の底で、互いの邂逅を喜び合っているように感じる。
「ようやく会えた」という様な言葉が聞こえてくる。
なぜ? を追いかけていくことで
その誰か、なにかを探し続けているような気がする。
終わりのない旅なのだと思う。
それでいて、突き放したような、にじり寄るような、焦りのような、やさしさのような
そういったバラバラなものも感じる。
感情を表現する、ということにおいて、公平にどんな感情とも付き合えているように感じる時と
明らかになんらかの衝動に駆られている時との、波がある。
実に堂々と、それらが静止画の中に腰をおろしている。
胸の痛みをさすってくれたり、突き刺したりが繰り返される。
その波の中に、淡い色彩が浮かんでいる。
慰め、安らぐ、旋律のようなものが、どの写真にも横たわっていて
やさしく見る者を包む。
そういった今日の雑感。
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