「モノリス(monolith)の木陰より」
山崎春美
いまや飢餓感はどうなってしまうのか? どのくらいまで詰まってしまっているのんだろう? 降るとなると破壊的に、局所めがけて激しい豪雨がやまない。激しく降る、激しく!降りつのる!つんのめる!もっと激しく! もっと! つい先だっても一滴も降っていないのにワイパーだけが左、右、左、とゆっくりだけど確実に、まちがいなく左右に振られ続けていた。首でも振っているかのようだ。だとすれば答えはNOなのか。運転者はいないのか。それとも死んででもいるのか。
絶対音感と呼ばれる才能があるらしい。私にはない。そのむかしには持ち合わせていたともおもえない。だからだろうか、聞こえはしても泣き喚く声の中では、悲鳴の音程をかぞえてしっかり聴きわけることなんて、できっこないしできない。できるわけがない。不遜で傲岸な好悪の念に支配された狭っくるしい主観だけを頼りに、画面を見守る一観客でしかない私はまた、マイクではないし録音機でもないのだ。きっと艱難辛苦をともにしたものたち同士でないと、聞き分け良く感情の襞までもを聞き取りできないのだ。私だって自殺はしたくない。とびおりたくない。首も吊りたくはない。
とりわけ慟哭は、その属性だけからしても音色だけでは聴きわけ難い。
たぐいまれなる蛇足を履いて、闊歩する天空の地底深く砂漠に溺れ死ぬぐらいがせいぜいであり関の山のあな、またアナなのでもあれば。痛恨の極まれし挿話でも、一筋縄ではほどけない、続かないし終われない。
映画ではふつう、ふたつの世界観が共存する。生と死ではない。言うまでもないこと、画像と音声だ。白黒なので色はないが誰が見ても非凡で才気迸るキャメラ・ワークには、無数のアイデアが溢れ満ちている。
片がわの足を撃ちぬかれたとしよう。銃でである、むろん。痛い。痛い!!それはもう千切れるほど痛い! 刀剣に刺し貫れたのだとしてもいい。たとえそんな場合でも、もういっぽん足が残されてさえいれば、這うように杖持て、いざり進むことはできよう。石の礫さえあればまだ戦える。たたかい得る。まだまだ闘えるのだ。愛することだとてまた、別であったりはしない。ましてや「神事」とあらば、さらにそのエッジを立て、尖り、間隙を抜き、突いては倦むことを知らぬ。
2014年9月の「追悼のざわめき」再上映について知ったのは偶然だが私の帰阪する直前であった。
個人的には実は、88年の大阪なんて決して振りかえりたくなんかなかった。まさか狙われていたわけではあるまい。
さすがに昭和の最後であるこの、断末魔のあがきにも似た往時の大阪を観たあとに、四半世紀以上を経た現実の大阪を見るとき、無数の可能性に満ち満ちていたかつての荒れ模様はどこに消えたのか。飛田新地百番の経営者は替わり、寂れきっていた串カツ通りの八重勝には行列慣れした観光客が並ぶ。発展場の邪魔にならないようにポルノ映画の音声は絞られ、天王寺交差点の名物交通警官は定年退職してハルカスから見下ろされる。
理由がある。存在理由などろくろくろくすっぽなくとも、この世にありとあらゆるありうるものはたくさんある。そして前衛が最高に厄介なのは、ハッと驚かせる鮮烈を魅せた刹那、類稀なる非凡さで身をかわす、あり余る才能をひけらかさずにはおられないことだろう。
だったらこの監督には極刑を望む。万死に値しよう。平成の大飢饉だ。死刑だ。R108指定でもまだ生ぬるい。法律違反だろ。即刻上映禁止にすべきなんだ。
追悼はまだわかるけど、蠢きながらざわめくのだとしたら、この極々極死的なざわめきは、やっぱり禁断の呟きとため息の先取りなのであろう。
以上、取り急ぎ。
註 : R108とは108歳以下の男女とも視聴禁止指定の事。殆どの人間が正規には観賞できないため、こっそり闇で見るか観たお年寄りから聞くしかない。百八つある煩悩の存するうちは、観る能わずのココロ。
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